
近江商人の「世間によし」は、商流によって形成される経済圏全体における価値創造であったように、企業にとっては、「ステークホルダーによし」こそ、価値創造の本質なのです。
他人との交渉において、自分の利益を先にいうことは、戦術的に誤っています。なぜなら、自分の利益の実現について意欲を示せば、相手に足元をみられて、不利な条件が提示されても、それを受諾せざるを得ない破目に陥りやすいからです。また、相手の不利益を先にいうことは、一種の恫喝として、相手を硬化させて、交渉が不成立になる可能性を高めます。
故に、世の常識においては、相手の利益を先にいうことが合理的な交渉戦術になるのです。例えば、商人の営業活動とは、顧客に商品の効用を説いて、購入による顧客の利益を先に提示することなのであって、顧客が価格に応じた利益を見出すときに、商談が成立するのです。このとき、商人に利益があるのは当然ですが、顧客の側にも利益があるわけで、商業の基本は、商人と顧客との双方における利益の創造になるわけです。
どのような経路で取引が成立しようが、取引が成立すれば、何らかの社会的価値が創造されるのではありませんか。
少なくとも経済的取引については、それが合理的である限り、取引が成立すれば、そこに何らかの社会的価値が創造されると考えるべきでしょう。つまり、理論的には、社会的価値を破壊する取引は、不合理なものとして、成立し得ないと仮定できるはずなのです。
しかし、問題は、社会的価値が創造されたからといって、当事者の双方に価値が創造されるとは限らないことです。例えば、優越的な地位にあるものが相手に不利益を強いても、取引は成立するかもしれませんが、そこに創造される社会的価値は、優越するものが得る利益から、劣位にあるものが被る損失を控除したものになるわけです。
また、一方の利益と他方の損失という構図にはならなくとも、取引当事者は、常に対等な力関係のもとにあるとは限らないので、取引技術や情報面において劣後するものは、取引によって創造された社会的価値の配分において、立場が不利になると考えられます。つまり、取引によって社会的価値が創造されるにしても、その配分は必ずしも公正にはならないのです。
公正とは、どういう意味でしょうか。
取引当事者間に、対等性と情報の対称性が成立しているとき、取引は公正になるのだと考えられます。対等性とは、当事者双方において、優越的な地位の濫用や、相手の心理的な脆弱性をつく技巧がなされないことであり、情報の対称性とは、合理的な判断の形成に必要となる情報が当事者双方に共有されていることです。そして、公正な取引においては、創造される社会的価値は、当事者間で等しく分配されるはずです。
相手の利益を先にいうことは、公正性の要件なのでしょうか。
相手の利益を先にいうことは、相手に有益な情報を提供することですから、情報を対称的にする努力の一環です。しかし、一方的に相手に情報を提供しても、相手からの情報の提供がなければ、情報は対称的になりません。情報の対称性を成立させる要件は、取引当事者間の真実の情報の交換であり、情報の真実性を保証するのは、当事者の誠実性であり、当事者間の相互信頼なのです。
また、相手の利益を先にいえば、真に相手の利益が考慮されていると評価される限り、優越的な地位の濫用でも、心理的脆弱性をつく技巧でもないことを証明するのであって、信頼関係を構築する第一歩になるのです。交渉とは、相互信頼のもとで、当事者間の共通利益の創造へ向けて、情報の対称性が形成されるように、即ち、相互理解が深化するように、対話することであって、そうした交渉のあり方こそ、公正性の要件なのです。
取引の創造する社会的価値は、公正性のもとで、最大化されるのでしょうか。
公正な取引は、必ずしも社会的価値の創造を最大化しないとしても、持続可能なものにするのです。例えば、相手の損失のうえに自己の利益を築くことは、最終的には、自己の利益が形成される基盤を弱体化させていくので、持続可能ではありません。故に、独占禁止政策において、優越的な地位の濫用が規制されているわけです。そして、消費者行政においても、全く同様な理由から、商品に関する情報の表示等が規制されているのです。
また、広告や宣伝、あるいは積極的な営業活動は、多くの場合、自分にとっての都合に基づいて情報を操作して、相手の心理的弱点をつくものであって、必ずしも公正ではないのですが、他方で、事実としては、取引を活発化させて、経済成長、即ち、社会的価値の創造を実現してきたのです。なぜなら、広告宣伝等は、健全な良識のもとで、持続可能であり得るように、不公正とはいえない範囲に抑制されてきたからです。
取引当事者間における価値創造の集積として、社会全体の価値創造があるのでしょうか。
近江商人の「三方よし」という商業哲学は、「売り手によし、買い手によし、世間によし」という表現に集約されています。しかし、これは、はるか後世になって、日本商業史の研究が進むなかで、定式化されたものであって、三方は、昔から、この順番であったとは限りません。むしろ、顧客の利益を先にいう商業の王道からいえば、「買い手によし」が冒頭にあるべきですし、あるいは、「世間によし」が根本で、「世間によし」であれば、当然に、「売り手によし、買い手によし」になるということだったかもしれません。
ここで、問題は、「世間によし」の世間とは、どの範囲の社会だったのかという点です。商人として、社会全体における価値創造を理念的な目標とするにしても、取引は個別具体的な顧客との間でしか成立しないので、現実に可能なのは、顧客との共通価値の創造だけなのです。故に、おそらくは、「世間によし」の世間は、商流で結合された経済圏であり、「世間によし」は、価値創造による経済圏の強化と拡大だったのでしょう。
社会の個々の成員の利益よりも、社会全体の利益が先に考慮されるということでしょうか。
個と全体の関係は、哲学の永遠の研究課題であって、様々に論じ得るわけですが、個の利益の単純な集積が全体の利益だと考えるのならば、「世間によし」という必要はないのです。「世間によし」というからには、世間の利益が先にあり、その配分として、買い手と売り手の利益があるとの前提があるはずです。そして、全体の利益が先にあるからこそ、その公正な配分が問題になるのです。
つまり、取引によって創造された価値は、当事者間で公正に配分されるべきであり、取引は、当事者の属する社会全体の利益を顧慮して実行されることで、社会全体における価値を創造し、その公正な配分として、取引当事者に利益が生じるわけです。そして、常に問われなければならないのは、自分の属する社会の具体的な範囲なのです。
企業にとっては、ステークホルダーの総体が社会なのでしょうか。
近江商人にとって、世間、即ち、商流によって形成される経済圏が社会の範囲であったように、企業にとって、ステークホルダーの総体、即ち、直接的に自己の利害のおよぶ範囲が社会なのです。故に、企業の持続的成長とは、ステークホルダーの総体における価値創造を通じて、内部的に、創造された価値の公正な配分を実現し、外部的に、外延を拡大強化することになるわけです。
ステークホルダーの総体は、常に再定義され続けるわけですか。
ステークホルダーの構成は、顧客基盤が変われば、変わりますし、顧客基盤が同一でも、生産、調達、流通等の構造が変われば、変わるわけで、要は、常に変化しているのです。企業の持続的成長には、不断の変革が伴うわけですが、企業の変革とは、より具体的には、ステークホルダーの構成の変化なのです。
では、ステークホルダーの構成が変化しても、変化しないものは何なのか、別のいい方をすれば、企業の同一性とは何なのか、あるいは、企業に固有の独自性とは何なのか。おそらくは、変化し得ないものは、製造の中核技術、顧客基盤、提供する社会的機能の三つのどこかにあるわけで、変革とは、変化し得ないものの再確認のことなのでしょう。
・経済の顧客満足による成長と顧客本位による持続可能性(2022.12.15掲載)
顧客の利益拡大により事業者の利益が増加します。この利益を確保するために先行者になろうとする段階で健全な競争が発生します。
・共感が顧客基盤をコミュニティにするとき(2021.4.1掲載)
当コラムではステークホルダーの一つである顧客がコミュニティを形成した場合の事業者との関係性について論じています。
・銀行には顧客を賢くする義務がある(2017.8.24掲載)
「三方よし」は短期的なものではなく、中長期で価値を創出するビジネスモデルです。当コラムでは特に銀行のフィデューシャリー・デューティーとの関係を交え顧客との協働について論じています。
(文責:岸野)
次回更新は、6月12日(木)になります。
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森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。